玉泉

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「青天を衝け」主人公 渋沢栄一先生と下田 ②

 玉泉寺二十五世、圭瑞文機和尚は、縁あって1920年(大正9)年8月首先住職(最初の住職地)として、当山に晋山している。この時、弱冠24歳であった。その頃の玉泉寺の状況はどうかと言うと、ハリスやヒュースケンが去って既に60年の星霜が流れていた。その間、明治時代は寺子屋「日盛舎」として、約30年間柿崎小学校の前身の教育機関として村の子供たちの学びやとなり、当時の住職は、和尚と先生の掛け持ちであった。この寺小屋も明治38年頃、新築された校舎に移り、その役割を終えた。

 大正の時代に入ると、檀家の人々の自慢の種であった奥行き四間半、間口十間、二尺角のけやきの大黒柱が中央にそびえ立つ大きな庫裡は荒廃著しく、今は懐かしい昔物語を唯一残し取り壊されたのであった。

 位牌堂もまた自然崩壊という哀れな始末で、唯一本堂のみが軒は傾き、根太は折れたみすぼらしい姿で残されていた。晋山した若い文機和尚は庫裡がないのであるから、本堂の一部を住居にあて、不自由な生活だったであろう。その昔、ハリス、ヒュースケン、プチャーチン、お吉、お福らによって日本開国の表舞台として使用されたこの堂宇は、あまりにも無残な姿をさらしていたのである。

 当時の光景をよく伝えるのが次の短歌である。

 「石段を登りてみればうら寂て、一宇の堂は物古りて建つ この君の内助とならん玉泉寺、貧しといわで吾は嫁し来ぬ」

 現住の祖母、村上節が23(大正12)年、東京から文機和尚のもとに嫁いできた時に詠んだ歌である。当時の玉泉寺の姿と、困窮に立ち向かう強い意志の感じられる歌である。こうして20代半ばの和尚は貧しい生活の中で、当寺に残る日本開国の歴史を調べ、村の古老たちからも伝え聞くところによって、日本近代史上、維新史上、開国史上の第一ページを飾る由緒ある寺院として、これを後世に残すことが天賦、畢生(ひっせい=一生)の仕事であると決意を固めた。頼りは若さだけであった。こうしてまずは玉泉寺史跡保存の趣意書の起草から始めたのであるが、それは21(大正10)年5月のことであった。

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