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米国黒船 ペリー艦隊乗員墓について②

G.W.パリッシュ墓.JPG

◎G・W・パリッシュ

墓碑銘 

合衆国コネチカット州ヘブロン生れ、1854年5月5日死亡、享年21歳

ポーハタン号にて雷鳴激しき日に任務に就業中前檣帆桁より墜落死亡

この石碑は彼の同僚によって敬意と愛情のしるしとして建立された。

生前、彼は愛されていたが為に、死して深く悼まれた。

日米和親条約により下田が開港されると、ペリー艦隊が下田港に集結した。碇泊中のポーハタン号で一人の水兵が任務中マストから転落し、死亡した。

ウィリアムズのペリー艦隊随行記に次のように記述がある。

5月6日(嘉永7年4月10日)、土曜日

 昨日の正午ごろ、一人の乗組員(ポーハタン号乗組)が前檣から落ちてひどい打撲傷を受け、最後まで正気を失わずに、日没ごろ息を引き取った。落ちた時に頭は打っていなかったのである。今朝は、役人たちがこの事故を調査し、葬儀と埋葬に関するわれわれの意向を打診するために艦を訪れた。ポートマン氏と私は朝食をすませると、彼らについて陸へ出向いた。彼は自己の始終を長官に報告した。長官は、現時点では、単に埋葬地を設ける暫定的な取決めをなし得るにすぎない、外人墓地として特に用地を設けることは、委員の到着を待って決定されなければならないと答えた。

彼やその他の者は、遺骸を柿崎に埋葬することに決定し、その村にある「玉泉寺」の墓場に場所が用意された。葬儀は午後の5時ごろから執り行われ、住民は全員が儀式を見ようものと参列した。その時刻に提督は、下田で町民を軍楽隊の演奏で楽しませていた。ここの墓地の墓石や碑銘は下田で見た墓地と全般的には類似しているが、細かい点ではいろいろな相違が見られた。「信士」「信女」という語が「座」という語が後につくい名に加えられている。墓石の中には、妻の名前を追刻できるように左側に余白をとってあるものがあり、また、両親、子供の名前をみな碑の一面に書き並べたものも数多かった。丘の松林は憩いの墓所となっていた。下田の墓地よりは、はるかに好ましい場所である。コネチカット州ヘブロンの親元を飛び出し、両親に逆らった向こうみずな行動の釈明となる、その後の彼の行状について、なんら親元に知らせることもできなかった、気の毒なパリッシュは、日本人達に囲まれてここに永き眠りについたのである...

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