下田開港170周年に寄せて③
下田は開港の歴史の舞台となるのだが、それらは多くの文献に詳しいので、ここでは視点を変えた記述としたい。
1854年3月末の先遣隊(サザンプトン、ヴァンダリア号)が発見できなかった危険な岩礁を、4月14日入港のサザンプトン号は下田湾の中央に発見した。それは深さ12フィート(3.6メートル)の円すいに近い形をした危険なものであった。直ちにその上に浮標を設置したために後続艦は事なきを得た。ペリー座乗のポーハタン号、ミシシッピー号の大型艦は18日に入港してきたのだが、これにより無事入港を果たした。この暗礁はサザンプトン・ロックと命名されている。
座礁は船乗りにとっては屈辱であり恥であった。絶対に避けなければならない。そのためにペリー艦隊には別働隊として測量艦隊(ロジャース司令官)まであったくらいである。4月18日で黒船艦隊6隻が下田湾に勢ぞろいしたことになる。
日本側は、下田村周辺は掛川藩、柿崎村から須崎村は小田原藩、港の西側は沼津藩が警護布陣を敷いた。また1844年に廃止されていた下田奉行を復活させ、奉行は伊沢美作守、都築駿河守であり、副奉行は黒川嘉兵衛と伊佐新次郎であった。玉泉寺に残る眉毛和尚の手記にはポーハタンは赤筋、レキシントンは白筋、サザンプトンは黄色とあり、ペリーの身分はアメリカ中海岸惣水師とある。当時の生の記録である。
この黒船艦隊のポーハタン号にも日本人が米国海軍水兵として乗り組んでいた。日本名で仙八という栄力丸の漂流民である。仲間からはサム・パッチと呼ばれていた。前年の浦賀への第1回来航時にはサスケハナ号の水兵として艦上から故国を3年ぶりに眺め、望郷の念は大きく募れども、過酷な取り調べの恐怖心はそれ以上であり、自身の意思で黒船水兵として残り、第2回時はポーハタン号にて来田していた。柿崎の船頭、権蔵がポーハタン号へ荷揚げの際に、仙八と会話をした記録が残っている。