玉泉

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下田開港170周年に寄せて④

 1854年4月25日、吉田松陰、金子重輔の「踏海の企」が起こった。松陰らはポーハタン号に伝馬船で乗り付け、渡米を要請するのだが、条約締結直後のことであり、拒否された。米国側は松陰らについて、渡米を熱望している若者であろう、またある者は盗賊と断じ、ある者は条約の履行を確かめるための密偵とし、ある者は彼らを亡命者と考えた。結局、もう少し待てば次の機会が必ずあるからと2人は説得され、失意の中、福浦に送り返された。

 5月5日にはポーハタン号のパリッシュ水兵がマストから墜落して死亡し、翌日に玉泉寺に埋葬されている。13日にはペリーは箱館(函館)の港湾調査のため、下田を出港し箱館に向かった。6月7日に再度箱館から下田に入港すると、日米為替レートの交渉に入った。翌日の交渉の中でペリーはワシントン記念塔の見取り図を示し、建設に使用する石材を箱館で手に入れたが、ここ下田でも提供してほしい旨申し出ている。

 6月15日には先に横浜で亡くなったミシシッピー号海兵隊員ロバート・ウィリアムズの亡きがらが横浜から玉泉寺に運ばれ改葬された。いずれも和親条約付録13ヵ条の調印前であったが、調印を見越しての埋葬であった。

 16日にはミシシッピー号上で仮装楽団の演奏会があり、300人の日本人がこれを楽しんだ。米国側のサービス精神の表れであった。20日には主席通訳官ウィリアムズが先に埋葬された2人の墓碑の仕事の進捗状況を見に玉泉寺に来訪した。22日のウィリアムズの「日本遠征随行記」には次のようにある。

 「ワシントン記念塔の石材が運び込まれた。墓石二基が出来上がった。立派な造りであり碑銘も見事な印刻であった。」

 ポトマック河畔にそびえるアメリカの象徴「ワシントン記念塔」の下田産(高馬)の石材には「嘉永甲寅のとし五月伊豆の国下田より出す。」と彫られ、898段の階段の220段目にはめ込まれている。また、5月5日に亡くなり、6日に埋葬されたパリッシュ水兵と6月15日に横浜から改葬されたウィリアムズの墓石が6月22日に完成していることが分かる。

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