玉泉

Blog

下田開港170周年に寄せて⑤

1854年6月25日、ペリー艦隊は下田を抜びょうし沖縄に向かった。ペリー自身の下田滞在は45日間であった。

 下田における異文化交流はおおむね和やかなもので主席通訳官ウィリアムズの日記には「上陸して散歩をすると、大変な群衆に付きまとわれた。誰もが健康そうで、食は足りている様子だった。秩序は良く保たれていた」とあり、町民が好奇心いっぱいだった様子が伝わってくる。日本の風習で「お歯黒」というものがある。既婚女性が眉を剃り落し、歯を黒く染める風習にはペリーもウィリアムズたちも驚がくしたらしい。

 ペリーの艦隊が去ると約半年後、12月4日プチャーチン提督座乗の北の黒船、ロシアのディアナ号が下田に入津した。ここでは日ロ和親条約についてのみ記述する。ディアナ号の遭難はご存じの通りであるが、彼らはこの間に何と日米和親、日英和親条約に次いで、ここ下田において日露和親条約を締結している。その第1回目の交渉が下田の福泉寺で行われた。大地震はその翌日であった。

 プチャーチンは来日の目的を通商の開始と国境の画定にあるとし、第2、第3回交渉を玉泉寺、第4、第5回交渉を長楽寺で行い、地震から1ヵ月半後、1855年2月7日に長楽寺で調印が締結されたのである。この条約の特筆すべきことは、第2条にて北方領土4島が日本と明記されていることである。

 第8条に領事裁判権があり、先に長崎で締結された日英和親条約よりも曖昧な部分のない実に分かりやすい条文となっている。条文には「魯西亜人の日本国にある、日本人の魯西亜国にある、是を待つ事緩優にして禁固することなし。然れども若し法を犯すものあらば、是を取押さへ処置するに、各其本国の法度を以ってすべし」とあり、わざわざロシア人が日本国で、日本人がロシア国で...と明記してあることが画期的であり、是は相互的治外法権を意味しており、条約の不平等性については何ら問題にならない訳である。

 ちなみに日米和親条約には領事裁判権の条項はないのだが、第9条に最恵国条款があり、その後の日英、日露との和親条約の「領事裁判権は」自動的にハリスがここ下田で調印した下田協約第4条に取り込まれたのである。

NEWSお知らせ・イベント

PAGE TOP