下田開港170周年によせて⑥
和親から通商へ時代は移り、外交交渉はより高度で、複雑な難しいものとなった。お互いに国を背負い、国益、威信、安全を最優先に平和的に交渉しなければならない。ハリスはこれをたった一人で成し遂げた。ハリスの名誉のためにもここは詳細に述べたい。
まずはペリーと公儀(幕府)の日米貨幣の交換レートについて詳述しておきたい。ペリーの下田滞在は2度にわたっている。1854年3月31日、横浜において日米和親条約が締結されると、4月18日から1ヵ月弱滞在し、箱館(函館)港の調査を挟み、再度6月7日からの18日間の役1ヵ月半である。前半の交渉でペリーは、1ドルを銭1200文で評価することを認めた。これは米国にとって極めて不利であった。下田から箱館に行くと、米国の1ドル銀貨は銭4800文で評価された。下田の4倍である。艦隊は大量の物資購入をこのレートで支払った。ペリーはそれが余りにも安かったので御用商人や船頭たちに大量のプレゼントを贈り、双方共に大満足であった。(ペリー日本遠征随行記1854年6月2日ウィリアムズ)。
この後、再度下田に来航し公儀との通貨交渉に入る。日米和親条約第7条に「合衆国の船右両港(下田、箱館)に渡来の時、金銀銭並品物を以って入用の品相調い候を差し免し候。尤日本政府の規定に相従可申」とあり、交換比率を決める交渉が必要になったのである。
下田での会談で公儀の主張は、当時国際的貿易銀として大量に流通していた1ドル銀貨(メキシコドル)について日本銀16匁と提案した。単位である匁は重量と金額二つの意味があり、1匁は3.75グラム、金額にして60分の1両で、一分銀が15匁であった。当時の金銀地金の幕府公定の買上げ価格(双替相場)は、銀については10匁(重量)が通用銀26匁(金額)だった。要は1ドル銀貨を単に地金として評価したのである。1ドル貨の純銀量6.16匁は6.16×26÷10=16.016となる。したがって公定銀目15匁(金額)の一分銀とほぼ同じと断じ、ここに計数貨幣である1ドルは計数貨幣である一分銀(天保一分銀)1枚として換算率が示された。