玉泉

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下田開港170周年に寄せて⑦

 日本側の言い分は米国の貨幣は貨幣とは認めず(単に地金=じがね)、日本の銀貨は計数貨幣だという実に一方的な主張であった。このことは現象面においてドル貨の3分の1の量目にすぎない貧相な一分銀が購買力において大きな力を持つことになる。米国側は当然不服を申し立てるが、公儀は「我国の通用金銀は目方にあらず、政府の極印によって通用いたす」と主張した。

 和親条約第7条の英文では「temporariiy established」とあり、仮の規定として、ペリーは和親条約の批准を最優先とし、貿易はまだ先のことと理解し日本側の言い分を認めたのだが、結局この後半の交渉でペリーも粘り腰を見せ、1ドルは1分であり、銅銭1600文で妥結した。

 1856年8月米国総領事タウンゼンド・ハリスはペリーの和親から通商を求め来日したのである。外交交渉は具体的かつ複雑なものとなった。ハリスは下田に着任すると早速に為替レートの交渉に入った。

 貨幣は経済の血液であるといわれる。血液が体内をしっかり循環し新鮮な酸素を全身に届けるように、流通手段において重要なものである。通貨問題が解決しなければ経済は回らない。国際間の貿易においてはなおさらである。それ故に両国の通貨問題(為替レート)は難航を極めた。

 日本側の主張はペリーの時と同じで、日本の通貨は極印によってその価値が決まる。日本の貨幣は紙や皮に刻印(極印)を打てば通用金となるというものであった。それに対しハリスは、それは日本国内では通用するが国際的には通用しないと、量目の同種同量を主張した。ペリーが仮に認めた1ドル銀貨=一分銀(天保一分銀)は、重量において1ドル銀貨は26.99g、純銀量24.2gに対し、一分銀は8.6g、純銀量8.5gと、ほぼ日本銀が3分の1であった。恐らくハリスは次のように主張したと思う。「もし1ドル銀貨を日本側で改鋳すると一分銀が3枚できあがりますね」。これには日本側も全く抗弁できなかった。

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